人を繋げる写真
2018/05/16
日常のこと
こんにちは料理写真教室フェリカスピコの佐藤です。
今日はある日の出来事について。
その出来事のおかげでとても素敵な気持ちになれたので、そのことについてを書いていきます。
Topの写真は私の祖父の写真。私の母の父にあたるので、名字は水野になります。
名前は哲三さん。実は次男だそうで、どうして「三」なのかは誰に聞いてもわかりませんでした。
私自身、祖父に会ったことがあるかというと、残念ながら母が末っ子な上に、自分も末っ子でだいぶ祖父とは年齢が離れていたので、生まれたころにはすでに他界しておりました。話によると祖父は当時コロラド州のデンバー大学に通っていたらしく、その後ニューヨークに渡っています。上の写真は傳馬佛教青年會とありつまりはデンバー仏教青年会ということだと思います。1920年代かそれより少し前のころの写真だと思いますが、そのころよりずっと前からコロラド州に移住する日本人も多くいたそうです。Wikipediaによると「米国仏教団(BCA)の歴史は、19世紀末より増加しだした日系移民に対する教化活動を端緒とする。」とあり、「浄土真宗本願寺派のアメリカ合衆国本土における布教組織」とも書いてあり今でもその活動は続いているそうです。まあ、深掘りしすぎるとわけがわからなくなるので、ひとまず先に進みますが、大学卒業後は貿易の仕事をするためにニューヨークへ向かった哲三さんでした。
これはNYの南に位置するコニー・アイランドで撮影した写真。いまでもこのデッキのようなボードウォークと呼ばれるところは当時の面影をのこして残っているそうです。お爺さん(左)、なんだかとてもオシャレです。
こんな写真も残っており、正直いまの自分より年下だと思うのですが、かなわないなーと思うくらい、しっかりした眼差しです。もしまだこの世にいるのならば、どんな人生だったのかぜひ聞いてみたいものです。
で、今日の本題にもあたるこの写真ですが、これらの写真は以前、祖父の息子にあたる叔父さんが亡くなられた時にたくさん出てきて、その後従兄弟と食事をした時に見せてもらったものでした。その中にスナップではない写真館で撮ったポートレートが入っており、中を開けるとこのブログのTOPの写真が出てきました。はじめは「へー」なんて言って流していたのですが、よく見てみるとその台紙にスタジオ名が印刷されていました。「LAQVAN STVDIO」。。「FIFTH AVE.NEW YORK」。初めの感想は「これって五番街だよねー。100年近く前にこんなところで写真撮るなんてオシャレー」ということ、そして「このスタジオ名、なんて読むだんろ?」でした。STVDIOがSTUDIOであることはすぐわかったので、LAQVANではなく、LAQUANなのだということは理解できましたが、なんだか読みづらくって「ラキュアン」?。これ何語?英語なの??と英語が話せる従兄弟とお酒を飲みながら話していました。でもなんだか気になってしまい、便利な世の中で、その場でiPhoneで検索をかけたところ・・・
以外や以外、なんと吉祥寺の「らかんスタジオ」が上がってきました。「え?」。「NYのスタジオについて調べたのに、なんで吉祥寺が出てくるんだ??しかも近所だし」。私は練馬、従兄弟も西東京市在住と吉祥寺へは車で20分もあれば着くので、近所は近所なのですが、なぜそこがヒットするんだろうと不思議でなりませんでした。スタジオ名を見る限り綴りは同じだし、腑に落ちないけど一致しています。この時までらかんスタジオについては知らなかったのですが、実は武蔵野ではとても有名なスタジオで家族写真、七五三、結婚式、お受験と子供のころからお世話になっている方も多いそうです。
その後調べたことですが、実はこちらのらかんスタジオさんは、創設時はN.Y.にあったそうで、それが1920年代の大正時代。そこから創設者の鈴木清作さんが1930年に帰国後、阿佐ヶ谷に「らかんスタジオ」を開設して、いまの吉祥寺に移転をされたそうです。上の写真は今のらかんスタジオ 吉祥寺N.Y.店の入り口です。創設時の歴史についてもしっかり触れられていました。
親戚が聞いた祖父が話していたことの中には「関東大震災のニュースをアメリカで聞いた」というのがあったそうです。関東大震災は1923年に起きており。確かにスタジオの歴史をみても、だいたい時期はあっているようです。80年代とか、90年代とかバブルや当時の流行曲を意識するのには、そのころの年代はよく出てきますが、まさか自分が20年代についてこんなに意識する日がくるというのは新鮮な気持ちになります。
そして、時はしばらくして、私はらかんスタジオのfacebookページをフォローしていたのですが、ある時そちらの記事に当時のことが書いてあるブログがシェアされていました。私が見たのは1960年代のころの記事で、そこからさらに見ていくともっと昔の記事が出てきました。なんとなくそこでは、話が繋がったことに感激して珍しくコメント欄に「写真を整理していたらニューヨークのらかんスタジオで撮影したものが出てきました。いま見ても男前でステキな写真で感激しました。」と書き込んでみました。すると、
なんとその書き込みに対してらかんスタジオのfacebookページの管理者の方からダイレクトメッセージがやってきました。メッセージの内容は「その当時の写真があればとても珍しいものなのでぜひ見せて欲しい」というものでした。私も写真の世界で仕事をしている身ですし、何かお役にたてればいいなという思いもあり、写真を所持しているのが従兄弟なので「よかったら家族で井の頭公園を散歩がてらそちらにうかがいますよ」と返信しました。
そんなこんなで話はまとまりはじめ、改めてSNSの恩恵にあずかったのですが、最初は「コレクションとして残したいので、写真をスキャンさせてもらう代わりに、ランチをご馳走します」とご提案をいただきました。しかし、従兄弟からの提案で「古い写真をなかなか上手に管理するのが難しいので、写真は差し上げて、ランチではなくてみんなで一枚だけ写真を撮ってもらえないですか?」というものに変わっていきました。私も同感で昔の写真でもお役に立ててもらえるのであれば、そこに渡るというか、帰るのは無理のない話であり、100年近く前に祖父が撮った写真館で、また新たにその子孫たちが写真撮影をしてもらえるというのは、これまた興味深い話なのではないかなと思いました。ただ、写真を無料で撮ってもらうことは同業でもあるカメラマンの私としては大丈夫かな?という心配もあり、いささか遠慮がちにその辺は聞いてみました(笑)。
すると、そのお願いごとに対してご快諾をいただくことができました。さらには、二代目の鈴木会長との面談があり、会長のお知り合いの新聞記者さんが取材にくるという話にまで発展していきました。ちょっとした小さな出来事が、こんなに多くの人を繋ぐことになるとはと、恐縮する反面、あらためて写真というものの力を感じることができました。祖父はいまこの世にいないけど、祖父が残した写真がみんなをつないでくれた。話はあれよあれよと広まり、従兄弟と私の家族で訪れるつもりだったのが、いつのまにか人数が少し増えることになり総勢13名で吉祥寺は らかんスタジオ吉祥寺N.Y.店に向かうことになりました。
お出迎えをしてくださったのは、社長の鈴木観さんと会長の鈴木育夫さん親子。地域に密着した写真館は写真のあり方が変わってきている昨今、安定した経営を続けることはそうたやすいことではないと想像するのですが、私も隣の区に住んでいながらこちらのスタジオのことは意識し始めてからですが耳にするし、実際にこの時も店内は大変賑わっており、地域の方々に愛される素晴らしいスタジオであることがわかりました。そこでは当時の祖父の写真をご覧になっていただき、鈴木会長からはらかんスタジオの歴史について教えていただくことができました。
ちなみに、1920年代のN.Y.時代には当時ロックフェラー医学研究所にいらした晩年の野口英世さんもスタジオで写真を残されており。その後黄熱病で亡くなってしまったというのはあまりにも有名ですが、らかんスタジオで撮影した写真が最後のものだったそうです。なんだかますます興味深くなってきました。鈴木会長からは会社の歴史が書いた本と、会長が撮り進めていた吉祥寺の街の移り変わるようすを載せた素敵な写真集まで頂戴しました。
話も盛り上がりましたが、その後すぐにスタジオへ移動し、メーンイベントの写真撮影をしていただきました。実をいうとこんな仕事をしながらなんですが、いままで七五三も家族写真も自宅にセットを組み立てて撮影をしていて、大人になってから写真館で撮影をしてもらうというのが初めての経験でした。上の写真は恥ずかしながらも母ですが、祖父の娘ということ一人で写真を撮っていただきました。
が撮影される中、
が静かに見つめる。初めてお会いするお二人でしたが、なんだかそんな気もしなかった。勝手な想像で申し訳ありませんが、どこか親戚のようにすら感じてしまうのは、これも創設者の鈴木さんや祖父がつないでくれたご縁だからだと思います。それなりの年齢になると親戚同士で集まるのも法事が多くなり会うたびしんみりしたものになりますが、今回はばかりは終始みな笑顔です。普段お話しない子供達もなんだか楽しそう。バタバタバタとしましたが、こうして会えてよかったと思うばかりでした。
上の階のスタジオで撮って、下におりてすぐにPCで確認。みんなが好きな写真を選ばせていただけました。
先述した新聞社の取材も無事に終わり、この日はこの一大イベントをもって解散となりました。
写真はとても素敵に撮っていただけました。
撮影中は細かなポージングの指示がありみんなプルプル頑張ってキープしておりましたが、こうしてみるとそのポーズをした意義が伝わります。仕事がらスタジオにいくとなんとなく道具やライティングを見てしまうのですが、なるほどこうすんだーと思いつつ、その質の高さに尊敬の念をいだきました。やっぱり餅は餅屋です。同じカメラを扱う仕事とはいえ、こういうジャンルの撮影にもしっかり専門家がいて、その精度は確かなものだということを思い知らされました。
仕上げていただいた台紙には今回撮影した写真のお隣に祖父の写真を入れていただきました。
思わぬ出来事でしたが、祖父が他界して数十年。その祖父の残した遺品が大勢の方をつないで素敵な一日をプレゼントしてくれました。そして、私にとっては写真の力、写真でできることというのを改めて考えさせられる。そんな数日でもありました。
About Us
日本大学芸術学部卒業後、2003年に独立。広告、書籍、雑誌、web、などで撮影活動中。2011年に、フードフォト専門の写真教室「フェリカスピコ」を設立し、約4000人の受講者がいる。Apple Store表参道、渋谷ヒカリエのイベント内でのレッスンも。「マツコ&有吉の怒り新党」(テレビ朝日)、「Rの法則」(NHK)などメディア出演も多数。 > 料理専門の写真教室 フェリカスピコ